昔話

二神将の腕
『海老名むかしばなし』より

二神将

 ある夏のことであった。来る日も来る日も天には一片の雲もなく、やけただれた太陽は じりじりと大地を照りつけ、人も牛馬も暑さにあえぎ、畑の作物はみなうなだれ、枯れる寸前にまでなってしまった。
 近くの村々では大山へ雨ごいのお水をいただきに行ったり、氏神様へお祈りしたりし たが、一向そのききめはあらわれなかった。世間からは、「この上は国分村で雨ごい をやってもらうしか他に手はない」という切なる願いが高まってきた。
 いよいよ国分村の出番である。村中あげて大張り切りである。お薬師様の辰の神、 巳の神をかつぎ出し、目久尻川の滝つぼに入れて水攻めにし、お坊さんが一心にお祈り をした。
 するとどうだろう、一天にわかにかき曇ってきたかと思うと、しのつくような大雨に なった。お湿りは十分あった。人々は手を取り合って大喜び、畑の作物もほっとよみが えることができた。
 雨がやんで二神将を見ると、どちらも片腕がない。一同は「弱った弱った、神様を片腕なしで返すことはできない」とあたりを探しまわったが、いくら探しても見当たらない。しかたなくそのまま元のお薬師様へお納めし、おわびをしておいた。
 あくる朝一人のお百姓さんが草刈りをしていると、田んぼのあぜ道に昨日あれほど探した二神将の腕が落ちているではないか。これはきっと天の神様がはげしく雨を降らせた時、勢い余って二神将の腕をもぎとり、黒雲に巻き上げたとき落としたものと、さっそく拾い上げ、ていねいに元へもどしておいた。
 こんなことがあってから二神将の腕はますます磨きがかかり雨ごいの霊験は高まる一方となったということである。


国分の雨ごい

『海老名むかしばなし』より

雨乞い

 この雨ごいの起源はわからないが、昭和の始めごろまで続いた伝統的な格式ある修法(祈る方法)であった。それは、真夏の大かんばつの際、各村々が雨降山(大山)へ雨ごいに行ったり、鎮守での祈願祭を行なったりしても、何ら効果のあらわれないぎりぎりの年でなければ、容易に実施されない行事であった。
 雨ごいが行なわれる時は、まず小さな御輿が二基作られ、つば広の経木帽に蛇と龍の絵が國分寺の僧によって描かれる。当日になると薬師如来の守護神である十二神将の中の辰の神、巳の神をその御輿に納め、村中から選び抜かれた屈強な若者が、白丁(御輿をかついだりする時の白い服装)姿に例の経木帽をかぶり、それをかつぐ。
 そこで僧が読経しつつ一升マスを持って輿の四すみに水を注ぐ。それが済むと、僧を先頭に、御輿、村役、一般市民の順で列を組み、旗をひるがえし、鐘太鼓を打ち鳴らしながら五彩の龍文を描いたかさをかざして逆川の上流である滝つぼを目指して進むのである。その際、異口同音に「雨たんもれ十分に、西に黒雲舞い立った」とくりかえし唱えるのであった。
 沿道の家々では、各戸ごとに水を満々とたたえた四斗だるをすえ置いて、行列がさしかかると一せいに一升ますで二神将めがけて水をかける。国分の辻を過ぎるとこんどは逆川用水路の中で、かねてから待ち構えていた人々が前よりも激しく水の放列を敷く、このため僧のあごはがくがく震え、経文のあやもわからず、その衣は破れんばかり。若者はまた紫色に変わったくちびるをへし曲げ息すらつげない苦難の目にあうのであった。
 ようやくお滝へ着くと輿を滝つぼにすえ、僧の読経のうちに二神将を水攻めにして、この壮烈な雨ごいは終わるのであった。その霊験は顕著で、いかなる年でも、たとえ三粒でも雨が降らないことはなかったというのである。


白椿の精

『海老名むかしばなし』より

白椿の精

 国分寺がすっかり衰微してその尼寺が薬師様と一緒になり、上の台から現在の所へ移ってきたころのことである。
 そのころの大山街道は国分の辻の第一分団の消防舎の下から土手下を薬師様の下へまっすぐに出て、石段の下で直角に曲がって大けやきの所に出、さらに海老名小学校下の交通信号付近から海老名耕地へと坂を下ったのである。ちょうど二つのかぎカッコをずらしておいたようなややこしい街道であった。
 この街道より一段高い薬師様(相模國分寺)のガケに太く生い茂った白椿が生えていて、毎年白い花をびっしりと咲かせ、その下を通る旅人は思わず足を止めてながめ入るのであった。 このころになると、夜な夜なきまって薬師様の門前の茶店にひとりの美しい娘が現れるのであった。黒髪をすっきり二つに分けて後ろに垂らし、きめこまかい肌が透きとおるほどの薄い白妙の衣を身につけ、その上なんともいわれぬ香りを漂わせて気品にあふれていた。
 この娘がどこの者か知る人はいなかった。そして茶店では一杯の茶を所望するばかりで休んで行くのだが、不思議と娘が立ち寄る店は栄えて行くのである。こうしたことがしだいにうわさに上っていったのであるが、白椿の花がみんな散っしまうころになると、ぱったり娘も来なくなってしまうのであった。
 ある年の春のことである。「例の娘がまた来始めたぞ」とまたまた村人の口の端にのぼるようになった。どこから来てどこへ帰るのかとある晩、もの好きの若者がそうっと後ろをつけたが、薬師様の石段の途中でぱっと姿が消えてしまった。若者は、あくまでその行方を確かめたくてならない。翌晩は縫い針に長い糸を通しておき、娘に言い寄り、そのたもとに針を通して石段の下で娘と別れた。
 翌朝、その糸をたぐってみると、糸は薬師様の大椿の梢高く続いていた。登って行って見ると、針は白椿の一枚の花びらに刺さっていた。「さては娘は白椿の精であったのか」と、これがまた大評判になったが、それっきり娘は二度と姿を現すことはなかったという。
 今、石段に向かって左側に幹の周囲1.5メートルの根分かれした椿があるが、この椿が伝説をを生んだ椿か、あるいはその子孫かは知る由も今となってはない。



尼の泣き水

『かながわのむかしばなし』より

 千二百年もの遠いむかしの天平十三年、相模国に國分寺がつくられた。金堂、講堂、中門、南大門などの七堂伽藍、天をつくような七重塔が朝日、夕日にはえていた。人々は、はるか遠くから國分寺をながめて、奈良の都のようだとあがめていた。やがて國分寺の近くに國分尼寺がつくられた。國分尼寺の尼と國分寺の僧とは、親しくなることが禁じられ、二つの寺の間には川が掘られていた。
 そのころ、國分寺の下を流れる相模川で、あみをうって暮らしている若い漁師がいた。漁師はいつしか國分尼寺の尼と知り合い、たがいに愛し合う仲となった。二人は夜になるのを待って、人目をさけて河原で落ち合っていた。
 ある日の夜、尼は日に日にやつれていく若者を見て、「どこか悪いのではありませぬか」とたずねたが、若者はだまっていた。「言うてくだされ。何か心配事でもあるのでは」若者はかすかにうなずいて話し始めた。「この頃は、いくらあみをうっても魚がかからないのです。それで、ここでは暮らしていけないから、ほかの土地へ行って・・」若者は、立って帰ろうとした。「お願いです。本当のことを言うてくだされ」尼は若者にすがった。「魚が逃げて行ってしまったのです。川につきささるような太陽の光を恐れて、逃げて行ったのです」「陽の光?それなら今まででも同じはずなのに。それがどうして?」若者は國分寺の伽藍を見つめながら、呪う様に言った。「あれに太陽の光が当たり、その照り返しですさまじい光が射すのです」尼も立ち上がって、月の光にくっきりと浮かぶ國分寺を見つめていたが、二人はさびしそうに別れていった。
 真夜中になった。「火事だー。火事だー。國分寺が燃えているぞー」村人が叫びながら飛んで行く。國分寺はメラメラとくるった様に燃えて、くずれ落ちていった。おそろしい一夜が明けて、静かな朝がおとずれた。國分寺の焼け跡は、まだくすぶっていた。
 それからいく日かたって、國分寺の火事は、恋にくるった尼が火を放ったのだ、という噂が広まった。その時はすでに、若い漁師に思いを寄せていた尼が捕らえられていた。そして、丘陵の上で刑場のつゆと消えた。放火の罪は重く鋸引きの刑になったという。
 やがて、尼がほうむられた台地の下からは、涙の様な湧き水が、一滴二滴と落ちるようになった。これを見た村人は、尼さんが罪をわびて流している涙だと言って、湧き水を尼の泣き水とよんだ。
 國分寺へお詣りにくる巡礼たちは、朝日さし夕日かがやく國分寺 いつもたえさぬ尼の泣き水と、ご詠歌をうたい鈴をふって、尼の冥福を祈るようになった。