境内写真

  『国分寺』由緒沿革
 

 当寺は、天平年間聖武天皇の勅願によって建立された「相模国分寺」であり、寺伝によれば天平9年丁丑の年、行基菩薩此地を点として七ツの精舎を建て、本尊薬師如来並みに日月大士の像を自ら彫刻して祭るとあり、以来時代とその変遷をともにし、源頼朝の時に一時その荘厳を維持するも、南北朝を経て戦乱の時代に入り、兵災罹り堂塔以下悉く灰燼に記したが、幸に寺域の一部丘陵の上に残った薬師堂を現在の境内に移し再興された。

 正徳年間(1713年)住僧堯智本堂を再建し、本堂・薬師堂・経蔵・山門・庫裡等並ぶとあるも、幕末頃本堂・経蔵・山門等廃絶。明治43年3月19日民家の火災により薬師堂類焼の厄を罹ったが、幸にして仏像類は難を免れ、同年11月薬師堂跡に仮堂ではあるが本堂が再建された。昭和29年11月客殿より出火、殿内に保存されていた什宝古文書等を消失するに至った。

 昭和46年これまで仮堂であった本堂と客殿が再建されたが、老朽のため平成6年4月24日再建された。

 尚、旧伽藍の遺蹟は史蹟として保存せられ、現存の梵鐘は正応5年(1292年)源季頼の国分尼寺に寄進されたもの(物部国光作)であって、大正12年国宝に指定せられ、重要文化財として当寺に保存されており、現在の鐘楼は昭和51年3月に再建されたものである。

 


本尊

  国分薬師
 

薬師如来は、「薬師瑠璃光如来本願功得経」に説かれており、詳しくは薬師瑠璃光如来で梵名は、「バイセイジャクロベイチョリヤハラバラジャ」という難しいお名前ですが、これは薬師青玉(瑠璃)光王ということです。この瑠璃光王は略して薬師というのでありますが、これは生死の病を除くから薬師といい、衆生の心の暗を照らすから瑠璃光というといった解釈もありますが、十二大願の中に、「我此名一経其耳、衆病悉心身安楽」という言葉がありますのでそれによって薬師といい、また東方瑠璃世界の教主ですので、瑠璃光というのが相応の解釈でしょう。またこの如来の本願が治病に重点をおいておられるので、特に大医王ともいわれます。
この如来の尊像には立像あり座像あり、手の持ち物のある像や無い像と、いろいろ、ありますが普通にお祭りしてあるのは、左手に薬つぼを持ち、右手は施無畏または与願印にしておられる尊像が一番多いのです。
この如来には脇仏として日光・月光両菩薩と十二神将という甲冑を着た眷族がおられます。日光・月光両菩薩は千の光明を放ち、本願慈悲等をもって、遍く世の中俗塵を照し、生死の闇を破し、十二神将は薬師本願経を誦持する者を擁護してくれるのです。
そこで薬師様の本願であるところの12の大願をあげますと、1.相好具足の願。2.光明照被の願。3.所求満足の願。4.安立大乗の願。5.持戒清浄の願。6.諸根完具の願。7.除病安楽の願。8.転女成男の願。9.去邪趣正の願。10.息災離苦の願。11.飢渇飽満の願。12.荘具豊満の願。であります。
つまりお薬師様の御誓願は、緒人の病理苦難を除き、身も心も安楽ならしめ、道理ある願い事であれば如何なる事柄でもこれをかなえしめ、又心掛けのよくないものは親切にこれを導いて、正しい方向に向かわせるために昼夜を問わず寒暑を厭はず、御苦労下さっているのがお薬師さまであり十二大願の御精神であります。
当国分寺の本尊のお薬師さまは、天平の昔聖武天皇の発願によって相模国の国分寺が立てられた時、お薬師様をまつられて以来、七堂伽藍は焼滅したのちも、薬師堂は立派に守られて、近世豊臣・徳川氏からも御朱印を附せられたのであります。時代とともに国分寺の盛衰興亡はありましたが、依然として国分のお薬師さまとして信仰され、現在に至っております。